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最初にこの地震を知ったのは1995年1月17日の起床後である。テレビでやけに地震についての被害を繰り返し放送しているなと思いはしたが、これほどの被害が出ているとはその時点で想像もできず、せいぜい倒壊家屋が数カ所程度だろう位しか頭の片隅になく、その日は終わった。
これはすごい地震だったぞ、と意識が変わったのは翌日の新聞と、テレビの特別番組によってである。それによってわかったのは関東大震災以来の被害で、神戸市近辺の町の機能は完全にマヒし、住民は避難生活を余儀なくされているということだった。そして、圏内外のボランティアがこれまでにない大規模な救援活動を展開しているということも報じられていた。これからの社会はボランティア活動(非営利活動)が大きな役割を担うということをP. Fドラッガー氏も言っていることから、興味を持っていたし、この日本にもいよいよ根付いたか、と思わせる出来事だった。それからは、この市役所内でも毎日の話題であり、義援金の寄付回覧も幾度となく回っていた。もちろん、義援金も何回となく寄付したが、今回の事件だけは、義援金だけの参加では物足りないという思いがあった。そんな中で、自治労が中心となった神戸南部地震の救済活動参加募集があったのは2月初めであった。
これを目にしてからというもの参加の理由付けを思いめぐらしていた。参加の対象はまず、執行委員の中からであろう。幸い、今の職場はこういったことを後押ししてくれる環境がある。他の職場や普通の人は年度末を控えとても余裕はないだろう。それに自分の親類はすべて関西・中園地区に居住しており、地域的な違和感は特別ない。体力や、接客業務、劣悪な環境になじむことには自信がある。注文していた携帯電話が届いているではないか。以上のことから今回の救援活動に参加できるのは自分しかいないのではないだろうか、と思い始めていた。
そして思惑どおり、自治労の救援活動の第2次グループに参加することとなった。
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